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「今日はえらい早いお帰りだね」
それを今又さつぱりとやつてしまつたのだ。髯のなくなつた彼の顔は、ずつと前のそれに逆戻りはしないで、病後の面変りも手つだつて、その円つこい縮ちゞかんだ輪郭が何かしら小さく、愛くるしげに見えた。
節度、克己、厳正、高雅、忍耐、――これらの、その内実に於ては達しがたい、しかも外見の立派さのために容易に人を惹きつけ易い徳は、漢学の素養のある正文にとつては親しみのある、又好ましいものだつた。彼は一人息子だつた練吉に望みをかけ、きびしい育て方をした。中学を出る頃までは良家の子弟らしく温和おとなしい一方だつた練吉は、医専へ入つて親の手許を離れた時分から急に人間が変つたやうに見えた。女の味をおぼえたのである。最初は女学生との関係であつた。次は年上の婚期のおくれた女と馳落かけおちした。その次は芸者だつた。どれもこれも殆ど生き死にをするやうな騒ぎであつた。一変して放蕩息子と化した練吉に仰天した正文は、この時覚悟をきめて、練吉はまだ学生の身だつたが、その芸者を嫁に迎へることにして、学校の所在地で家持ちをさせたが半年とつゞかなかつた。女が結核になつたせいもあるが、別れる時にはかなりの手切金をとられた。
何かしら、すつ飛んでしまつた。白い光るものも、鬼倉の隈取くまどりのやうに荒い皺の走つた顔も、それからあの、もやもやした怒りも。そして、ぼんやりとして次のやうな話がとり交はされるのを聞いていた。
かういふ場合によく現れているやうに、彼等は、房一が農家の出であるといふことで非常な気易さを感じているらしかつた。同時に房一自身にとつても、彼等を診察したり、その苦しげな或ひは面白げな話に耳を傾けたりするとき、非常に馴染深い或る物、彼の存在の奥深くに響き答へる或る物が感じられるのだつた。そして、その或る物は単に彼等農夫との間ばかりでなく、河原町全体、この懶ものうげな町の様子や、温かげに見えて手を入れると冷い河の水流や、雑木の目立つ山々や、銅山の廃坑の赤い土肌や、それら全体の中から房一の見つけているもの、そして、その或る物は目にふれるや否や、ちやうど飼ひ慣らした犬が主人を見つけて一散に飛んで来る、そんな悦ばしげな感情をもつて房一の胸にとびこみ、彼の中に柔い落ち着きと平和を築き上げて行くやうであつた。
その時、練吉はぐつと盃をつきつけた。
私が寐る前に入浴するのはいつも人々の寝しずまった真夜中であった。その時刻にはもう誰も来ない。ごうごうと鳴り響く溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖が変に私を落着かせないのである。もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じていたのではない。文字通りの気持から言えば、身体に一種の抵抗リフラクシオンを感じるのであった。だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓らちのない恐怖にある限界を与えることになるのであった。しかしそうやって毎夜おそく湯へ下りてゆくのがたび重なるとともに、私は自分の恐怖があるきまった形を持っているのに気がつくようになった。それを言って見ればこうである。
そこには一人の男が顔を手拭で蔽はれたまゝ、一種普通でない様子で寝かされていた。手拭の下からは赤黒く汚れた額の一部と、土埃にまみれた頭髪とがはみ出していた。その傍には、やはり印袢纏着の真黒い顔の男がついて、ぽかんとして戸外を眺めていた。
「うん」
「いや、これから往診に行くところだ」
私はもともとヌル湯好きで、いつまでつかっても汗のでない程度が好きだ。
築地には四五本の木材が立てかけられて、玄関に通じる石畳の上には鉋屑が一杯に散らばつていた。その白いのや紅味がかつた真新しい木の色はふしぎな生気をこの家に与へていた。あの低い大きな屋根がぐつと身を起したやうにさへ見える。